失ったもの、取り戻したもの

気持ちの整理がつかずただただどこかに吐き出したくて書き殴った文字の羅列です。

そのうち消すと思います。

 

偶然会い、興味を持ち、憧れて、悔しくて、焼かれて、諦めて、手放そうとした

捨てきれず、掴み直して、既に時遅く、追いつけず、辿り着けず、華やかに消えていった

焦げ付いた幻影を残して

 

 

最初に出会ったのはただの偶然でした。知り合い数人がコメントしてたまにニコ生ゲーをするだけの過疎枠、そこのランキングに見たことない強烈な印象を残す名前、少しコメントをしたら自分も放送をしている旨を零して去っていった、それだけのことでした。

少しして、見る枠を探して彷徨っていた時に見覚えのある名前が目に入りました。そういえば放送をしているといっていたなと覗けばそこの主に負けず劣らず強烈な性癖をコテハンにしているリスナー達、はっきり言って地獄です。これきり見に来ることもないと思って一言二言コメントしたら閉じるつもりでコメントしました。

好きな駆逐艦の貯金箱を割りたい癖を熱く語られました。

意味不明でした。ほんとに訳が分からなかったです。ただそれでもたまに放送を見に行くようになりました。

 

彼は楽しそうに戦果をしていました。興味を持ちました。3群に入れるかどうかをうろちょろしていた身には分からない世界だったけど、知りたいと思いました。ただその当時は学校に行き、バイトをし、たまの休みに海に出て1日糸を垂らしていた自分には周回する時間とやる気がありませんでした。

 

新型コロナが流行りました。世界が変わりました。授業はリモートに、休みも増え、海に行く頻度も減りました。3群を継続しました。2群も経験しました。時間とやる気ができました。周回の仕方、編成、海域、生活リズム、色々聞きました。20年10月、初めて走り出しました。自分にできることを全部したつもりでした。最終更新まで天辺に居続けて、まえちゃんが佐世保に輝くはずでした。

 

結果が発表されました。

3位でした。

 

悔しかったです。

 

同じ月、まえちゃんを背景に飾った提督がいました。その人は14000積み上げ宿毛湾にまえちゃんを飾っていました。

上位の世界を魅せられました。次こそは佐世保の天辺を、背景を、と思いました。

ただ、タイムリミットがありました。翌年の4月から社会人になるからです。

3月にはもう走れません。実質12~2月の3ヶ月しか時間がありませんでした。2月にもう一度、そこしかないと思って準備をしました。

 

2ヶ月準備をして2月、10月に出した自分の全力が甘えだったと思えるほどに絞り出しました。睡眠、資源を絞り出し、海に行くこともせず、1ヶ月PCの前で過ごしました。あの時自分ができる限界の数字を積みました。12137、当時佐世保歴代なれど21年2月全鯖5位以下、戦果viewerの1位の欄が赤くすらなりませんでした。

同月、上位戦果を教えてくれた彼は宿毛で背景をとりました。12345、自分の死力を尽くした戦果は、彼のダブルカットブルネイを前に追いつくことは叶いませんでした。

「またいつかここに来る」

時間とやる気があればできると思い込み、放送で見たダブルカットブルネイに焼かれ、打ちのめされ、次やる時間がいつできるかもわからずに、それでもなにかを思ってその一言をコメント欄に残して2月を終えました。組むことすら叶わない経験値カット戦果がただただ胸に焼きつきました。

 

 

社会人になり、3群の継続もおぼつかない環境になりながらも、艦これを触る日々は送っていました。原付でツーリングをしたり、変わらず海で糸を垂らしたり、カブールが実装されて癖にぶっ刺さってレベリングをしたりしながらも、イベントになればまえちゃん旗艦でひぃひぃ言いながら攻略をしていました。この頃は旗艦攻略をモチベに艦これをしていた節はありました。

坊ノ岬イベントが始まりました。まえちゃん旗艦で最終日まで粘ったものの勝ちは拾えませんでした。メンテ3時間前、大和を旗艦に乙抜けしました。

モチベ、愛着、こだわり、全てが消し飛んだ瞬間でした。

一日1回起動するかすら怪しい、遠征と演習をしたら閉じる、そんな日すらあるようなまで、無気力になりました。もういっそすっぱりやめよう、開かなきゃいい、とまで思っていたものの、それでも1つだけの心残りが艦これを起動させていました。

カブールのレベルカンストをできていない。175にするまではやめられない。

手持ちのまえちゃんが全て175になっていた当時、この子の存在だけがただ繋ぎ止めていました。

 

坊ノ岬が終わってから約3週間、カブールが175になりました。

 

その後1ヶ月もせずトーチ作戦が始まりました。手癖の様にまえちゃん旗艦はするものの少しでも躓きそうになれば旗艦を入れ替える、そんなイベント攻略が終わったら原付でツーリングをしたり、海で糸を垂らしたり、でもその休日の過ごし方に艦これが入ることはありませんでした。この先もないはずでした。

偶然、彼のツイートで妃愛を見かけました。偶然、可愛いなと呟きました。

偶然、時間が空いた時に彼の放送がありました。

偶然、聯合DBを彼が管理し始めていました。

 

一度憧れて打ちのめされて背を向けた世界にもう一度来いと声をかけてくれました。

 

「またいつかここに来る」あの時残した一言が呼んでいました。

 

焼きついたダブルカットが呼んでいました。

 

坊ノ岬終了メンテと同時に消えるはずだった俺の艦これを、繋ぎ止めた子の背景が、残っていました。

 

21年2月に止まった足が、22年7月に折れた心が、動き出しました。

準備期間6ヶ月間、23年2月試走に春イベ連合レベリング。

2年間狭い世界に閉じこもっていた自分とは思えないほど多くの人との縁もできました。

 

それでも、この世界は甘くありませんでした。

23年5月26日、レベル上限が180になりました。焦がれて準備し続けたダブルカットは、組むことの叶わない憧れに還っていきました。

やっぱりダメなのだと、お前には成し遂げられないのだと、そう言われたかのようでした。足が止まりました。

それでも、カブールの背景だけは取りたい。上限が180になった今この子を180で天辺に連れていきたい。

ここでもカブールは繋ぎ止めてくれました。なにより聯合を走っている知り合い達がいました。

足が動きました。手が動きました。戦果を積めました。21年2月に見ているしかなかった経験値カットもレベル99だけれど3-4で再現できました。

彼の言葉がありました。他の人からすれば酷い煽りで、自分も対外的には煽りだというけれど、熱い熱い激励でした。報いたくなりました。鯖記録に向けて歩くだけじゃ物足りなくなりました。Y砲2度撃ち、梅雨砲、並走者だらけのお祭り、この6月戦果の先頭に立ちたくなりました。走りました。全力で走って先頭に立ちました。2年前に手の届かなかった景色を見ました。「またいつかここに来る」そのとき見た「ここ」、その先の景色を見ました。嬉しかったし、楽しかったし、気持ちよかった。願わくば5月31日22時からこの景色に向かって走りたかった。後悔しました。あの景色と後悔はいつまでも忘れられないでしょう。

10月、彼の葬式が始まりました。月初に諸々被るものがあり、参列はできそうにありませんでした。それでももう一度一緒に走りたい。純粋な気持ちで、並走をしたい。幸い今の自分には無茶を叶える方法がありました。6月の経験、それを武器に走りました。

聯合の席は空いていませんでした。それでも割り込みました。ただ、背景には届きませんでした。力不足でした。4か月前に月初から走ればよかったと後悔したばかりなのに、並走を決めるまでの数日に足搔いていれば、月の前半にもっと死力を尽くせば届いた背景がそこにありました。なにより彼の死の数値を越えていれば背景を取れていた。最後の並走で、3年前背景をとることができずに悔しいと思った3位の座で、自分の弱さを思い知りました。

3.6億に到達して墓に入った人は上限解放されない限りもう走ることができないというのに。

24年2月、聯合をします。23年に紡いだ縁を切っ掛けに、2月に走ります。奇しくも10月に3位になり、1度目の鯖記録を手にした2月と被ります。ただ、3年前、宿毛の1位にいた彼は墓の中にいます。一緒に走ることはできません。あの時焼きついたダブルカットブルネイで彼が走ることはありません。自分の艦隊で組むこともできません。幻影となって焼きついているあのダブルカットブルネイを、きっとまた資源を絞り出しながら3-4で追い続けるのでしょう。例え自分が組めたとしても、実測値が当時の彼より早く出ていたとしても、焼きついた彼のブルネイは俺のブルネイより早く、母港に帰ってくるんでしょう。

 

 

 

 

彼は海域RTAに誘ってくれました。3年前、上位戦果に興味を持った夏と同じ季節、また新しい世界を教えてくれました。

あの時、初めて聯合にチャレンジするために準備を始めた時の様に、準備をし始めました。

11月の鈴熊杯、なにもわかないながらも、とあるブログを参考に編成を組んで走りました。誘われたからとサブ艦を99で止めていたお陰で潜水以外はカット編成で挑むことができました。勝ちたいと秘かに思っていたライバルのような人達もいました。惨敗でした。熟練の走者達が優勝目指して賭けに出て負けてしまったが故に1ケタ台の順位にいました。でも、自分の中では惨敗でした。

本番はるせる杯です。一緒に出ようと誘ってくれた彼のチームで走るために、経験を積むために出場した大会でした。悔しかった。もっと経験しないといけないと思いました。だからこそ、全海域RTAは適性検査なんて口車に乗って走りました。やる気があればどうにかできると思っていました。聯合で散々思い知ってきたはずなのに、同じように思い上がって、散りました。ありとあらゆるガバ、道中撤退、ボス勝利

、目も当てられない走りをしました。皆完走しただけで偉い、初めは誰もそうなると声をかけてくれます。ですが見るも無残な走りでした。

そんな走りを見て1人、全海域RTAに興味を持った人がいました。その人はるせる杯エキシビションで副主催が走る全海域RTAに並走をしました。入念に組まれたチャート、事前準備、ガバの少なさ、ありとあらゆるものが自分と真逆の走りをしました。完敗どころか同じ土俵に存在すら上がっていませんでした。悔しいを通り越して自分の3:00:49の数字が惨めでした。

自分が何を目指したいのかがわからなくなりました。自分が何をしたいのかがわからなくなりました。「自分の艦これ」は坊ノ岬で失っていたことに気づきました。その人は坊ノ岬を乗り越えて歩み続けてる人でした。その事実を知った時、坊ノ岬に背を向けて失った自分には2度と手に入れられないなにかに焼かれました。

艦これの画面の縁に坊ノ岬の赤いボスゲージが見えました。どんなに出撃しても割れない赤黒いゲージが見えました。1年半掛けてあのイベントが追いかけてきました。これからもこのゲージは北上が、雪風が、矢矧が、霞、朝霜、最上がCIをどんなに出そうとも消えてくれないのでしょう。

 

 

 

 

 

この数日、本当にいろんなことを考えて、考えても答えがでなくて、考えることすら嫌になって、なにかをする気力がなくなりました。

だからといってレベリングの手を止めるわけにはいきませんでした。個人戦に出る予定なだけだったらここでやめてたでしょう。でも、るせる杯はチーム戦です。個人の気力など言い訳にしていられません。

それでも、手が止まりそうになりました。何か別のことをして紛らわそう。ブルアカのストーリーを読み直して気を紛らわせました。

ものすごく刺さりました。初めて読んだ時の何倍にも。もう二度と抜けないくらいの棘になるかのように。ただそれでも

救われた気がしました。頑張れる気がしました。まだ読み切れていないけれど、一番好きなお話になりました。

 

目指すべき場所はわかりません。やりたいことがわかりません。墓にだって入れません。タイムだって出せません。自分の艦これは失いました。

 

海に行きたくて行くときがあります。旅行がしたくて原付に乗ってどこか行くときがあります。別ゲーを遊びたくて遊ぶときがあります。

 

一度足が止まりました。一度心が折れました。一度転んでうずくまっていました。もうやめようと思った時がありました。

 

自分の艦これは今はありません。でも、毎日遊んでいます。毎日周回しています。一度やめようとしました。でも今ここにいます。

 

Vanitas vanitatum et omnia vanitas.

例えそうだとしても立ち止まる気は今はありません。今日の最善を尽くして。

艦これをやめる気はありません。

何時か墓の貴方に、何時か見つけるであろう自分の艦これを自慢できる日を夢見て

妹を紹介されて艦これと戦果を壊された話 出走準備編

子羊憐です。

せっかく走って佐世保鯖歴代記録取ったんだし書こうよって誘われて4ヵ月、僕の戦果と艦これを壊した張本人の棺桶に入れるお供え物にでもということで筆を執ってみました。

 

だらだらと綴ってたら長くなりました。

  • 経緯
  • 試走編
  • 準備編
  • 崩壊の瞬間

 

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